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働かざるもの食うべからず?誰に向かって言ってるの?

安易に使う「働かざるもの食うべからず」って言葉、とても違和感がある。

「働いていないのであれば食ってはいけない」ように聞こえるが、対象となるものは誰をさすのか?


元は新約聖書の「テサロニケ人(びと)への第2の手紙」に登場する

以下

兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言い伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。

以下略。
「新約聖書」325-326ページ、『聖書』日本聖書協会、1971年。
以上


でこれを引用したのがレーニンである。

レーニンは、当時ロシアに居た貴族や資本家などの特権階級が、土地代や金利などの権利物による不労収入により庶民以上の贅沢な生活をしていたことを攻撃するため、この一節を演説で引用した。

そういった不労収入で贅沢な暮らしをしている特権階級を倒して共産主義革命を!という趣旨での「働かざるもの食うべからず」であったようだ。

要するに、この言の対象とは「不労収入で遊んでいる人、豊かな特権階級者」ということだ。


共産主義とかいろいろあるのだけれど、実際として物事を二極化したうえで対立軸とし、もってルサンチマンを醸す土壌として、利用されていたのだろうとおもう。
つまり、日本で共産を少しかじった人からすれば、既得権益者がそれに当たり、権利物を持つものVS持たざるものということである。まぁ、既得権益者を倒したといっても、自分らがそれらに取って代わりたいだけで、決して一般には還元されないのが世の常である。
であるため、根底としてエリート主義が共産には吹き荒れ、判るべき物が指導するとなるようだ。

そういった背景を知っているのもいいのだろうが、しかしこの言葉は心にしこりとしてずっと残る。
というより強迫観念となり、そう言われないための生活が主軸となってしまうことに違和感と不条理を感じてしまうのだ。どういうことかというと、生きてゆく答えというのがこれに集約されてしまうということだ。

どこぞのおっさんに

「お前がどんな生き方をしてもいいが、結局働かざるもの食うべからずなのだよwww」

などと、諭されてしまう。そんな感じ。

でもそれって、何を言わんとしているのか不明瞭だ。

税金を払え?
体が砕けても死ぬまで働け?
公的援助はもらうな?
病気になるのはなったやつが悪い?
事故にあったらあったほうが悪い?
でもローンで家建てて借金返すのは奨励?
結局なにを言いたいの?


簡潔に言えば、弱いものが弱いものに向けて言い放って、今の自分の安泰を確認してるだけだろ?
そういった寝言は、自分自身に言ってみたらどうだ。もしくはどこぞの電力会社にでも言ったらどうだ?


実際、弱い上に働くことを蔑んでいるものがこういった言葉を吐くのを何べんも見てきた俺は、聞くだびに「自分に向かって言え。」と思うのだった。

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答えのある社会

答えのある社会とは何であろうか?
答えとは、問いに対する解である。
社会生活上の問いに対して、その解が必ず存在する社会のことをいう。

なぜ、私がそんなたいそうなことを、とお思いかもしれないが、今住んでいる国が「どうもそうらしい」と思えているからだ。

たとえば、家族の形とは何であろうか?

もちろん国が用意している。それが標準世帯と呼ばれるものである。

それは税金などを考えるとき、一般的な家庭というモデルが紹介される。両親(会社員と専業主婦)と子供2名が典型的だ。これは巷ではこう呼ばれる、「モデル家族」と・・。
これは標準的なという言葉を用いながら、なにが標準なのか良くわからない代物だ。
特に、税金・国民保険・年金を論じるときに盛んに引用されるモデルであり、これこそが国が徴税をするためのモデルであることを意味する。

つまり、家庭とはかくあるべしの解がそれにあたる。

まぁ、国が「そう」設計したのだが、結局計画倒れとなり事実上破綻しているが、決してそれを認めようとしないのが現在である。
そうであるがゆえに、多様な家族姿は存在は認めるけれど、そんな家族は「国は知りませんよ、自己責任ですよ」といい、ワイドショーでこの家族構成になるように恐怖を与えて、モデルを守っているのが現状だ。

ジリ貧とはこういうことである。

さて以上が国の解であったわけだが、それらから外れた解は解なのかどうかといえば、国的には解ではない。
ではどんな扱いなのかといえば、民間にゆだねるのである。
国のモデルから外れたものをありがたく受け取ってくださいね、ということなのだ。

そして民間が出した答えが、「多様な家族姿」という解である。

民間は、国から下賜されたものを、聞こえのいい言葉(自由など)を標榜に金儲けの道具とし、勝手に家族姿をカテゴライズさせ、その解を販売するのだ。

解が存在しているということは、楽でいい。そこに向かわせれば良いだけだからだ。

だから、突然「脱サラ」がもてはやされたり、「別荘」が沸いてきたり、「第2の人生」だとか言われたりする。
まぁ、それだけなら「ばかな商売」でいいのだが、とかく存在する解を存在するように導き出すことを訓練させられてきたバカ世代においては、「そんな生き方があるのか!」と一つ覚えのように作られた解によってたかる。

夏といえば海で、花火で、冬といえばスノボでなどという、うんざりするほど判りきった虚無の世界と成り果てるわけだ。

まぁ、そういったことだから、解をほしがるものも大勢いるわけで、その解を用意するのも役所の仕事なのだが、今現在の諸般の決まりを変える事は、法に守られて税金や収入を得ているものが固定化されている日本では、新たな権益を与えることでしかできないのが現実だ。

国に解を認めてもらえれば、法制上の保護も必要となるため、決して簡単には認められないのである。
ちなみにパートタイマーなどの労働保護法は、税金が取れるから行ったまでで、決して弱者救済ではない。


まぁ、解によって金儲けをしているものがいるわけで、それらが役所や公益法人やらマーケティング会社というのもである。


しかし、本当に解が存在しているのだろうか?という問いには誰も答えない。
必ず解のある社会の前提が崩れてしまうからだ。

思考の檻が見えてますか?

御巣鷹と福島をつなぐ線が見えてきた

以前晴耕雨読さまより転載させていただいた内容であるが、再度読み返すと非常に興味深い。

以下引用
http://sun.ap.teacup.com/souun/50.html及び
http://sun.ap.teacup.com/souun/52.htmlより

防衛庁の核武装研究報告

 ここでは私達(核開発に反対する物理学者の会・代表槌田敦)が入手した防衛庁安全調査会による二つの報告、1967年版と68年版によって、当時の政府が考えていたことを整理する。


(8)民間航空機の利用

報告書には
「各国の潜在核戦力の運搬手段を考える上で、案外見逃されているのは民間航空機、特に大型のジェット輸送機のもつ能力である。諸外国では当然の事ながら、民間航空機の高性能のものは、平時から緊急時に際して戦時編成への転用を建前としている」

「現在、日本航空が太平洋線の貨物輸送に使用しているDC8F型というジェット貨物機は、実に最大43トンの貨物を一度に積み込み、4700カイリの航続力がある。さらに69年から日本航空の路線に投入されるDC8-61型という新型は、それより数トン多く積める上に、積荷を減らせば、日本から米本土西海岸までノンストップ飛行可能という長距離性能をもつ。」

「数年後の日本国籍大型輸送機の数は100機を越えるのは確実だ」

「ドゴールの強硬外交のバックをなすフランスFASは、ミラージュ型36機とKC135給油機12機であるから、日本航空のDC8型改造給油機48機と、戦闘爆撃機48機で戦略空軍を編成しても、決して見劣りするものではない」(337頁)とこの報告は結んでいる。

以上


民間機を核輸送手段として検討していた・・・・

御巣鷹墜落事故を検証しているサイト

(新) 日本の黒い霧 さま

以下引用

では以下のようなエントリーがある福島の事故をきっかけに、図らずも日本の核ビジネスの裏構造が見えてきました。この構造は以下の点から、本ブログがメインに扱っている1985年の日航機事件にも通じるものと私は考えます。

 ・核燃料(兵器)の密輸送
 ・政府より強大な裏権力構造の存在
 ・国際機関(各国政府、IAEAなどの国際機関)の介入
 ・徹底した報道管制

私は、御巣鷹の犠牲者の魂に、彼ら同胞を死に追いやった存在を暴くと誓いましたが、その巨大な存在の姿が、今回の原発事故で多くの日本人の目に晒されるようになりました。その存在を更に見極め、それを乗り越えることこそが、JAL123便の犠牲者のためであり、ひいては日本の将来のためであると思えるのです。


以上


どうやら、いろいろ見えてくる頃かもしれません

子飼いの農家

以下
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/365568.html
産業界が「農業大学校」設立へ 経営感覚ある若手育成(04/16 18:46)

 ニチレイやエスビー食品、イオンなど約200社の企業が連携し、農業経営者を育てる「大学校」を設立することが16日、分かった。2013年4月に東京都内に開校する。農家の高齢化などで衰退する農業を、産業界を挙げて支援。経営感覚のある若手就農者の育成を通じ、今後も品質の高い国内の農産物が安定的に供給できるようにする。

 今回の大学校は、文部科学省が所管の大学とは別。2年間の全寮制で、年間20人程度を受け入れる。最先端の農業理論や経営理論の講座を設ける。農作物をつくる実習も用意し、企業経営者が講師を務めることも計画している。


以上

つまりだ。


請負農場をほしがっていると・・。



ネットワークPCから見た近未来

最近PCを取り巻く環境が変化している(といってもいつものことだが・・)。

MAC Airに始まったネットワークPC(外部記憶をネットワーク内に移管・依存するPC)がそれだ。
ディスプレーと内部記憶装置、キーボード、ネットワーク接続ディバイスだけを持ち、光学メディアは無い。
ネットワークに繋がることが前提で、多くの機能を排除し、表示・再生・アクセス能力に選択集中されている。

まぁ、iPhoneがその最たるものだな。

つまりは、記憶は外部移管されているのだ。ネットワークがそれを支えている。
便利この上ないと思える。記憶媒体を持ち運ぶのは重いし、壊れるかもしれない。映画のDVDなど持ち運ばなくても良いし、いつでもどこでも自分のストレージに簡単にアクセスできる。
ストレージから必要なものだけ内部記憶に保存し、アップロードすれば更新も簡便。


間近の姿は、ディスプレーのみ持ち歩くことになるだろうな。
部屋のいたるところにディスプレーのみがあり、好きなものを好きなように表示させられる。
iPhoneのような操作感で多くの操作が完了し、キーボードは物体として存在しなくなり、電子化される。

机自体がディスプレーになったりするんだろうな。
そのうち有機物上にもディスプレーが存在したり、紙のようにホッチキス止めできたり、貼ったりできるだろう。
光る壁紙なんかが出てきて、蛍光灯なんて無くなったりするだろうし・・・。


まぁデータのやり取りと表示だけで済む世の中になるって言うことだな。


見方を変えれば、記憶が外部に移管されるということは、自由に扱えなくなる可能性があるということだ。
誰かに許可申請を出したり、課金されたり、負担がかかったとしても便利さゆえ依存してしまうので、手離すことができなくなる。

情報・記憶・編集・作成・取出し・生成に制限がかかる世の中になるって言うことだ。
限られた(お金を払える人、アクセス権のある人、仕事別に権限付与される人、税金を納めている人などなど)条件を設定させられたら、普段生活においてたとえ自分で物事を考えても、編集・取出し・発信が限定させられてしまう。

辞書や図書なんて外部移管だから、調べることもできなくなるし、誰かがネットワーク上で発信した情報も自由にアクセスできなくなる、もしくは誰もができなくなる。

買った図書や、辞書、ネットワークから探し出した物の意味やニュースなどはプリントもできず、ディスプレーに記憶させても、ある時間で自動消滅。

与えられる情報のみにアクセスさせられ、編集もできず、取出しもできずという、今のTVのような状態になってしまうのであろう。

そんな世界はイヤだね。知り合いもデータのやり取りと表示だけの世界にいて、実際に会うこともできずに情報共有し、脳内宴会とか脳内セクルとか・・。


そんな世界では、血肉の通った人間や直接触れ合えるパートナーが必要だろうな(人風の商品でなく)。

あとはディスプレー付き記憶媒体(高機能USB)で、ネットワークには一切繋がらないもの。
これがあなたを補完する役割を持つと思う。